一週間ぶりだった。
僕は森川ユウジ、30歳。先週の深夜、配送料計算の全滅事故を直してもらった、あの3階のオフィスにまた来ている。ただし今回は障害対応ではない。報告だ。
先週ロックさんに教わった handles による委譲——列車事故を解体するリファクタリングを、1週間かけてシステム全体に適用した。メソッドチェーンは1本も残っていない。$order->customer->address->prefecture のような連鎖はすべて1段の委譲に置き換えた。テストも全部通っている。
手には缶コーヒーを2本持っている。1本は先週の礼。もう1本は今日の報告がてらの差し入れだ。
階段を上がって3階のドアの前に立つ。先週は半開きだったドアが、今日は閉まっている。ノックすると、中から声がした。
「開いている」
入ると、壁の様子が変わっていた。先週のクラス図はすべて剥がされていて、代わりに何かのグラフが貼ってある。ノードとエッジで構成された、メソッドの呼び出し関係図のようだった。赤い糸は健在で、ノード同士を結んでいる。
ロックさんはデスクに向かって画面を睨んでいた。先週と同じ位置にエナジードリンクの空き缶が並んでいるが、本数が増えている。7本。
「ロックさん、先週はどうもありがとうございました。お礼に——」
「ああ、列車事故の」
覚えてはいるらしい。ただし名前は覚えていない雰囲気だった。
「森川です。先週教わった handles の委譲を、全クラスに適用してきました。結果を見てもらえますか」
缶コーヒーをデスクの端に置くと、ロックさんは缶を一瞥してから僕のノートPCに視線を移した。
「見せたまえ」
一週間ぶりの再来
僕はリファクタリング後のコードを開いた。先週の障害の原因だった ShippingCalculator ——あの4段の列車事故を、handles で1段に解体した。同じことを TaxCalculator にも InvoiceGenerator にもやった。さらに、全体を統一的に扱うために OrderFacade というクラスを新設した。
「すべてのメソッドチェーンを潰しました。Order に対するアクセスは全部 OrderFacade 経由で、1段の委譲です」
自信はあった。先週教わったことを忠実に守った結果だ。
ロックさんは画面を覗き込んだ。5秒、10秒。先週は5秒で問題箇所を指さしたが、今回は黙って画面を見続けている。
「……ワトソン君」
「森川です」
「この OrderFacade を開いてくれたまえ」
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「これだ。これが全貌かね」
「はい。OrderFacade は Order へのアクセスを一元化するクラスです。ShippingCalculator も InvoiceGenerator も、Order を直接触らず OrderFacade 経由で——」
「このクラスには、独自のメソッドがいくつある」
質問の意図が分からなかった。
「委譲メソッドが5つです。shipping_zone、item_name、quantity、unit_price、total_price」
「そうではない。委譲ではなく、このクラス自身が何かを計算し、判断し、変換するメソッドは、いくつある」
数えるまでもなかった。
「……ゼロです」
ロックさんはエナジードリンクの缶を1本取り上げた。空だった。いつも空だ。
「ワトソン君。君は先週、列車事故を解体した。連鎖を断ち切り、各車両が自分の仕事をするように壁を立てた。それは正しかった」
「はい」
「だが今、君は壁だけで構成された車両を1両追加した。乗客も荷物も載っていない。通路だけがある。誰かが通り抜けるためだけに存在する車両だ」
空っぽの部屋
ロックさんは壁のグラフに新しい紙を1枚追加した。OrderFacade のメソッド一覧を書き出し、それぞれに矢印を引いた。矢印はすべて Order の同名メソッドに向かっている。
「5本のメソッドがある。5本ともが Order への委譲だ。1本も例外がない。この状態を Middle Man と呼ぶ」
「Middle Man」
「仲介人だ。郵便局のように、届いた手紙を隣の部屋に渡すだけの存在。手紙を読みもしない、返事を書きもしない。ただ受け取って、ただ渡す」
「でも——」
言葉が出た。反論したかった。
「先週、ロックさんが言ったじゃないですか。『直接の友人とだけ話せ、見知らぬ者と話すな』と。だから ShippingCalculator が Order の中身を知らなくて済むように、OrderFacade で1段にまとめたんです」
ロックさんは缶を置いた。
「Law of Demeter——デメテルの法則は『見知らぬ者と話すな』と言っている。だが『全員の間に通訳を立てろ』とは言っていない」
「何が違うんですか」
「通訳が翻訳をしているなら、彼がいる意味がある。だが通訳が、聞いた言葉をそのまま隣に繰り返しているだけなら、彼がいない方が会話は速い」
ロックさんは ShippingCalculator のコードを開いた。
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「ShippingCalculator は facade から shipping_zone を受け取る。OrderFacade は order から shipping_zone を受け取る。Order は customer から shipping_zone を受け取る。Customer は address から shipping_zone を受け取る」
「4段の委譲になっている。でもそれぞれが1段ずつだから、Law of Demeter には違反していないですよね」
「違反していない。だが OrderFacade の委譲を取り除いて、ShippingCalculator が Order を直接受け取っても——やはり違反しない」
言われて気づいた。ShippingCalculator にとって Order は「1段先」の存在だ。OrderFacade を間に挟んでも挟まなくても、shipping_zone を呼ぶのは1段。
「OrderFacade を挟むことで得られる防御は何もない。Order のインターフェースが変わったら、OrderFacade の handles も ShippingCalculator の handles も同時に壊れる。間にガラスを1枚足しただけで、衝撃は素通りする」
「じゃあ OrderFacade は完全に不要だったってことですか」
「不要かどうかは、このクラスに独自の仕事があるかどうかで決まる。今の OrderFacade にはない。だから不要だ。だが独自のロジック——たとえば注文のバリデーションや、複数の Order を束ねる集計処理があるなら、それは Facade パターンであって Middle Man ではない」
graph LR
SC["ShippingCalculator"] -->|"handles: shipping_zone"| OF["OrderFacade<br>(独自ロジック: 0)"]
IG["InvoiceGenerator"] -->|"handles: *"| OF
OF -->|"handles: *"| O["Order"]
O -->|"handles: shipping_zone"| C["Customer"]
C -->|"handles: shipping_zone"| A["Address"]
style OF fill:#fee,stroke:#c00,stroke-width:3px
仲介人の審問
ロックさんは壁のグラフに赤いマーカーで線を引いた。
「判定は単純だ。クラスのメソッドを3つに分類する」
Step 1: メソッドの分類
「まず、そのクラスが持つすべてのメソッドを数え、3種類に分ける」
| 分類 | 定義 | 例 |
|---|---|---|
| A. 独自ロジック | 委譲先のデータを加工・判断・変換するメソッド | total_price で quantity * unit_price を計算 |
| B. 純粋な委譲 | 引数も戻り値も変えず、ただ別オブジェクトに渡すだけ | handles => [qw(shipping_zone)] |
| C. そのクラスに属すべきロジック | 本来このクラスが持つべきだが、まだ移動されていない処理 | ——(今回は該当なし) |
「B が過半数を超えたら、そのクラスは Middle Man だ。OrderFacade の場合、5メソッド中5メソッドが B。100%だ」
「じゃあ半分以下なら問題ない?」
「割合だけで機械的に判断するものではない。1つでも A のメソッドがあれば、そのクラスには存在理由がある。ただ B を減らせないか検討する価値はある」
Step 2: Remove Middle Man
「OrderFacade を除去する。ShippingCalculator と InvoiceGenerator が Order を直接受け取るように変更する」
まず ShippingCalculator を直す。
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「変更は属性名だけだ。facade を order に変え、型を OrderFacade から Order に切り替える。handles で shipping_zone を委譲する構造は同じだが、間の1層が消えている」
次に InvoiceGenerator。
| |
「こちらは handles を使わず、$self->order 経由でメソッドを呼んでいる。Law of Demeter に違反しないか」
僕は自分で考えた。$self->order->item_name は2段の連鎖だが、order は InvoiceGenerator の直接の属性だ。order の先にある item_name は Order の公開メソッド。2つだけの関係であり、Order の中の Customer や Address の構造を知る必要はない。
「……違反していないですね。$self->order は直接の友人だから」
「そうだ。ただし $self->order->customer->address->prefecture と書けば3段先まで到達する。やるなとは言っていない——やるなら handles で1段にまとめろ、と先週言った。今回のポイントは、そのまとめ方が過剰だったという話だ」
Step 3: 振り子のバランス
ロックさんは壁に貼ったグラフの隣に、新しい紙を追加した。天秤のイラストだった。手描きの、かなり雑な天秤。
graph LR
LoD["Law of Demeter 違反<br>(列車事故)"] --- Balance["ちょうどいい<br>委譲"] --- MM["Middle Man<br>(空っぽの仲介人)"]
style LoD fill:#fee,stroke:#c00
style Balance fill:#efe,stroke:#0a0
style MM fill:#fee,stroke:#c00
「Law of Demeter 違反と Middle Man は、天秤の両端だ。委譲が足りなければ列車事故が起き、委譲が過剰なら空っぽの仲介人が生まれる。完璧な均衡点は存在しない」
「じゃあ何を基準にすればいいんですか」
「変更が来たときに、壊れるクラスの数を数えろ。先週の列車事故では、1箇所の変更で3クラスが同時に壊れた。それは委譲が足りなかった。今の OrderFacade は、1箇所の変更で OrderFacade と、その先の消費者クラスが壊れる。間に挟まっているだけで、衝撃は素通りしている。壊れるクラスの数が減らないなら、その委譲は仕事をしていない」
ようやく基準が見えた。委譲を追加するのは「壊れるクラスの数を減らすため」であって、「メソッドチェーンのドット数を減らすため」ではない。
「先週の Customer の handles => [qw(shipping_zone)] は、Address の内部構造が変わっても Customer が衝撃を吸収する。壊れるのは Customer の handles 宣言だけで、Order や ShippingCalculator には波及しない。あの委譲には意味がありました」
「そうだ。あれは翻訳をしている通訳だ。Address が prefecture を region に変えても、Customer が shipping_zone を提供し続ける限り、上流は壊れない。だが OrderFacade は翻訳をしていない。Order の shipping_zone をそのまま shipping_zone として渡している。名前も意味も、何も変わっていない」
graph LR
SC["ShippingCalculator"] -->|"handles: shipping_zone"| O["Order"]
IG["InvoiceGenerator"] -->|"$self->order"| O
O -->|"handles: shipping_zone"| C["Customer"]
C -->|"handles: shipping_zone"| A["Address"]
style SC fill:#efe,stroke:#0a0
style IG fill:#efe,stroke:#0a0
style O fill:#efe,stroke:#0a0
style C fill:#efe,stroke:#0a0
style A fill:#efe,stroke:#0a0
仲介人のいない世界
テスト全パス。
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Order のテストは変わっていない。変わったのは Order を使う側——ShippingCalculator と InvoiceGenerator が OrderFacade を挟まず直接 Order を受け取るようになったこと。
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ShippingCalculator のテストも構造は同じだ。OrderFacade->new(order => $order) という1行が消えただけ。テストが短くなったのは、間にいた仲介人がいなくなったからだ。
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全テスト、パス。
僕は画面を見ながら、この1週間を振り返っていた。
先週、列車事故を直した夜。明日のリファクタリング計画を頭の中で組み立てながら階段を降りた。月曜から金曜まで、毎日2–3クラスずつ、メソッドチェーンを潰しては handles を設定した。全クラスの連鎖がなくなったとき、達成感があった。
それが今日、1クラスまるごと不要だと言われた。
「……悔しいんですけど、納得はしてます」
ロックさんはデスクの缶コーヒーに手を伸ばした。僕が持ってきた方だ。プルタブを開ける音がした。
「先週教わったことが間違っていたわけじゃないですよね。Customer の handles は残したし、Order の handles も残した。消したのは OrderFacade だけだ。handles 自体が悪いんじゃなくて、何も加工しない委譲だけのクラスを作ったのが問題だった」
「そうだ。薬と毒の違いは量にある——とはかのパラケルススの言葉だが、委譲も同じだ。1段の委譲が傷を塞ぐガーゼなら、意味のない委譲を重ねるのは、ガーゼを100枚巻いて患部が見えなくなることに等しい」
「パラケルススって誰でしたっけ」
「16世紀の錬金術師だ。化学と医学の祖とされている。今は関係ない」
関係なかった。
「ロックさん。1つだけ聞いてもいいですか」
「2つ目だが、構わない」
「先週の列車事故のとき、僕が『委譲は地図を持たなくて済むようにすることだ』って先に言ったら、ロックさんは怒りましたよね」
「先に推理を言うなという意味だ。怒ってはいない」
「今回、僕が作った OrderFacade を見た瞬間に、これが Middle Man だって分かったんですか」
ロックさんは缶コーヒーを一口飲んだ。
「5秒で分かった。だが10秒かけたのは、100%委譲で独自ロジックが本当にゼロかを確認するためだ。1つでもあれば——たとえば注文のバリデーションメソッドが1つでもあれば、あれは Middle Man ではなく Facade だった。判断を急いではいけない」
答えに納得した。先週学んだのは「委譲で列車を解体しろ」。今週学んだのは「解体したあと、空っぽの車両を走らせるな」。同じ道具が、使い方を間違えれば別の問題になる。
缶コーヒーの2本目は、ロックさんが飲んでいた。1本は僕の分だったのだが、言い出すタイミングを逃した。
探偵の調査報告書
| 容疑(アンチパターン) | 真実(パターン) | 証拠(効果) |
|---|---|---|
| Middle Man(過剰な仲介人) | Remove Middle Man — 直接アクセスの許容と委譲の見直し | 無意味な中間層が消え、呼び出し経路が短くなり、変更時の波及箇所が明確になる |
推理のステップ
- 空のクラスを見つける: クラスのメソッドを「独自ロジック(A)」「純粋な委譲(B)」「移動すべきロジック(C)」に分類し、B が過半数を超えたら Middle Man の疑い
- 委譲の価値を問う: その
handlesは「衝撃を吸収している」か、それとも「素通りさせている」だけかを判定する。名前も意味も変えない委譲は仕事をしていない - 直接アクセスに戻す: 消費者クラスが Middle Man を経由せず、元のオブジェクトを直接受け取るように変更する(
facade→order) - 独自ロジックがあれば残す: バリデーション、集計、変換など独自の仕事を持つメソッドがあれば、そのクラスは Facade であり Middle Man ではない。削除せず B のメソッドだけを減らす
- 天秤を意識する: Law of Demeter 違反(列車事故)と Middle Man(空の仲介人)は天秤の両端。完璧な均衡点はなく、変更の波及範囲が最小になる位置を探す
ロックより
車両と車両の間に壁を立てるのは正しかった。だが壁だけで構成された車両を走らせてはいけない。乗客のいない車両は連結を外したまえ——列車は軽くなり、残った車両の乗客は快適になる。委譲という道具を手に入れたばかりの者が最初にやる失敗は、あらゆる場所にそれを使い、何も変換しない中間層を量産することだ。道具の価値は、使う回数ではなく、使うべき場所に使うことで決まる。
