第1幕: 持ち込み ── ご報告というか、確認というか
先月分の綴じ込みを棚へ戻したところだった。指を離すと、紙とインクの匂いが少しだけ残った。棚の高いところは埃を払ったばかりで、背表紙の文字が揃って見える。私は自分の席に戻り、今夜の記録帳を開いた。
サカキは表示盤の前にいた。琥珀色の光が、盤の下の縁に沿って一定の間隔で流れている。今夜はどの系統にも遅れが出ていない。
ドアが開いた。押し方に急ぎがなく、かといって遠慮でもない。用件を先に決めてきた人の開け方だった。
「こんばんは」
フクハラさんだった。半年前に一度、別件でここへ来たことがある。人事部で就業規程の運用を担当している人で、そのときも同じように、静かに入ってきた。
「……ご報告というか、確認というか、そういう用件で来ました」
サカキは表示盤から目を離し、椅子を勧めた。用件の言い方を訂正しなかった。
私は記録帳の頭に「報告」と書いた。いつもは「来訪」と書く欄だった。その下の欄には、まだ何も書けなかった。
フクハラさんは鞄から紙を出した。二度畳んで開いた跡が、紙に残っている。
「今、規程の問い合わせに自動で答える仕組みを使っているんですが」
「それが、来期で使えなくなります。向こうから通知が来ました」
紙を机に置く。他社線からの通知だった。日付が入っている。この日を過ぎたら、今の直通は取りやめになると書いてある。
「移すしかないのは分かっています。でも、止められないんです。毎日、朝から問い合わせが来るので。一日に百件くらいです。止めたら、その百件がそのまま人事に来ます。うちは三人しかいません」
「期限が来たら、いったん止めますと、上には報告するつもりです」
一息だった。結論から先に言う人だ、と私は思った。前に来たときも、そうだった。
サカキはすぐには答えず、通知の日付だけを見ていた。
「試されましたか。新しいほうは」
「一応」
フクハラさんは二枚目の紙を出した。左に旧いほうの答え、右に新しいほうの答え。同じ質問が五件、並べて印刷してある。
「同じことを訊いて、並べてみたんです。……でも、同じなのか、違うのか、私には分からなくて」
そこで初めて、声の調子が少し落ちた。
「私は規程の担当ですけど、この仕組みを作った人間ではないので、どこを見れば『同じ』と言えるのかが分からなくて」
私は書き取った。この人は、諦める前に、やることをやっていた。
サカキは規模だけを確かめた。期限までは二か月と少しあること。答える相手が全員社員であること。三年前に外の業者へ頼んで組んでもらったもので、担当した人はもういないこと。
それだけ聞いて、原因の話には入らなかった。
「その紙、こちらへ回してください」
フクハラさんが紙を滑らせる。サカキは受け取ってから、机の上でまっすぐに置き直した。
フクハラさんは、壊れたものを持ってきたのではなかった。判定できなかった、という経験を持ってきていた。
第2幕: 照合 ── 同じかどうかは、こちらが決めます
サカキは、今動いている仕組みのコードを開くように頼んだ。フクハラさんが手元の端末を操作し、画面を指令所の盤へ映す。短いコードだった。
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「答えは、二つに分かれて返ってきていますね」とサカキが言った。「本文と、引いた規程の番号」
「はい。番号は画面にも出しています。社員が自分で規程を確認できるように」
サカキはコードの一行を指した。窓口が持っている直通先は、一つだけだった。この一本が、外の会社のモデルにつながっている。窓口は、誰から来た問い合わせかを受け取ってはいる。受け取ったまま、どこにも使っていない。
「直通先が一つです。替えるなら、この一行を書き換えて、その日から全員を新しいほうへ回すことになります」
「そう思っていました。切替の日を決めて、その日に入れ替えるんだと」
「戻すときも、全員まとめてです」
一度に全部動かす、ということは、間違えたときも全部まとめて間違える、ということだった。私はそう書いた。
フクハラさんの背が、椅子の背もたれに触れた。「……そうなんですよね。だから、怖くて」
サカキは責める調子を出さなかった。
「三年前にこの形で組んだのは、おかしくありません。替える予定がないものを、替えられる形にしておく理由は、当時ありませんでしたから」
そして、机の上の紙を引き寄せた。
「持ってこられた紙を、一件ずつ見ましょう。同じかどうか、フクハラさんが判定してください」
フクハラさんが一件目に目を落とす。有給休暇の繰り越しについての問い合わせだった。左は「繰り越せるのは20日までです。」、右は「繰り越せる日数は20日が上限です。」どちらも第32条を引いている。
「これは、同じです」
即答だった。
二件目。育児短時間勤務の質問。左は「子が3歳に達するまで利用できます。」、右は「お子さまが3歳になるまでご利用いただけます。」
フクハラさんの指が、紙の上で止まった。行を二度たどってから、顔を上げないまま言った。
「……これは、どうなんでしょう。言っていることは、たぶん同じなんですけど、書き方が全然違って。うちの社内文書は、こんなに丁寧な言い方はしないので」
私はその間を書き取った。声が止まっていたのは数秒だった。
サカキは急かさなかった。「三件目を見てください」
三件目は通勤手当の上限額だった。左は「上限は月額30,000円です。」で第18条。右は「通勤手当の上限は月額30,000円です。」で第19条。
「あ……これ、番号が違います」
フクハラさんが紙を持ち上げた。
「金額は同じですね。でも、引いている条文が違う。……こっちのほうが、正しいかもしれません。去年の改定で、通勤手当の条が移っているので」
サカキが口を開いた。
「今、三通りの決め方が出ました」
フクハラさんが顔を上げる。
「一件目は、書いてあることが同じかどうかで決めました。二件目は、書き方が違うので止まりました。三件目は、どちらが正しいかで決めようとしています」
「……ああ」
「どれも、決め方としては筋が通っています。ただ、それが混ざっているうちは、日に百件届くものを同じ基準で判定することはできません」
フクハラさんはしばらく黙っていた。それから、諦めたときとは違う顔で言った。
「じゃあ、どうやって判定すればいいんですか」
「同じかどうかは、こちらが決めます」
サカキは紙をまっすぐに戻した。
「返ってくるものを、変わっていい部分と、変わっては困る部分に分けます。先に分けておきます。ここでは、文面は変わっていい。引く規程の番号は、変わっては困る」
「文章が良くなっているかどうかは、判定に入らないんですか」
「見ません。見ないと決めます」
フクハラさんが黙る。納得していないときの黙り方だった。
サカキは続けた。
「文章の似ている度合いを機械で測る方法はあります。ただ、あれは『〜である』と『〜ではない』の差でも、その数値が高く出ます。逆の意味を、同じだと判定することがある」
「別のモデルに、同じ意味かどうかを採点させる方法もあります。こちらは、採点する側の答えも毎回変わります。判定の道具が毎回違う答えを返すなら、判定になりません」
「今夜採る決め方は、何度やっても同じ結果になります。番号が一致しているか、していないか。それだけです」
フクハラさんが小さくうなずいた。「……そこだけなら、私にも分かります」
サカキは私に、シミュレータを用意するよう言った。フクハラさんが持ってきた五件の過去の答えを、そのまま突き合わせの元として置く。今動いている窓口の直通先だけを新しいほうに差し替えて、同じ五件を流す。
流す前に、サカキがフクハラさんに確認した。
「引く規程の番号が、今までと変わったもの。今夜は、それを拾います」
「異常と呼ぶかどうかは、後で決めます。まず、拾えるようにします」
「ほかは、まだ決めません。回答の文面が変わることは、今夜は拾いません」
「はい」
流した。五件のうち一件、番号が変わっていた。三件目の通勤手当だった。警報が鳴った。
フクハラさんが少し前に出た。
「……ちゃんと、見つかるんですね」
「見つかったのは、フクハラさんが紙を持ってきたからです」
サカキは盤の表示を指さなかった。指したのは、机の上の紙だった。
「今の仕組みの中には、突き合わせる相手がどこにもありません」
「それに、今流したのは、持ってきた五件だけです。本番の問い合わせは、この間も一件もここを通っていません」
サカキは机の紙を指した。
「この警報は、指令所の机の上で鳴っています。路線の上ではありません」
第3幕: 指令の一手 ── 客を乗せない試運転
「止めずに移す方法が、あるんですか」
フクハラさんの声に、来たときとは違う張りがあった。
「あります」とサカキが言った。「さっき、この机の上でやったことを、毎日の百件の中に置きます」
「新しいほうにも、同じ質問を流します。ただし、利用者に返すのは、今までの答えだけです。新しいほうの答えは、記録に取るだけで、誰にも届きません」
サカキは説明をそこで止め、机の紙をもう一度見た。
「客を乗せない試運転です。同じ区間を、同じ時刻に走らせて、どう走ったかだけを記録します」
サカキは新しいコードを盤に出した。
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「新しいほうへ通す割合を、数字で持ちます。今は0です」
サカキが percent の行を指した。
「0のあいだも、新しいほうへは同じ質問が流れます。答えが誰にも届かないだけです。10にすれば、十人に一人が新しいほうの答えを受け取ります。100にすれば全員です」
フクハラさんが画面を見たまま言った。
「じゃあ、試運転と、切替は、別の仕組みではなくて」
「同じ目盛りの、両端です」
サカキは、比喩の前の言い方へ戻した。
「切替の日に書き換えるコードは、別にありません。この数字が0か100かの違いだけです」
「新旧を並べて走らせて、返すほうだけを少しずつ移していく。Parallel Run と呼ばれる進め方です」
私はその言い方を書き写した。試運転という言葉と切替という言葉は、私の記録の中ではずっと別の欄に置かれていた。それが一本の目盛りの両端だという言い方は、今夜が初めてだった。
別の欄に置いていた二つを、私は一つの欄へ描き直した。左端に0、右端に100。その間に、途中がある。

描いてみると、左端と右端で違っているのは、届かないほうが新旧どちらかというだけだった。真ん中では、その届かない線が消えて、二本に割れる。
「途中で、おかしいと分かったら」
「目盛りを0に戻します。日を決め直さなくても戻せます」
サカキは目盛りの行を指したままだった。
「それと、目盛りが10のあいだに起きることは、十人に一人にしか起きません。全員に起きてから気づくのとは、後始末の大きさが違います」
フクハラさんが、初めて紙から顔を上げたまま黙った。それから小さく息を吐いた。
「一斉に替えるのが怖かったのは、そこでした」
「一つ、気になることがあるんですが。利用者から見て、返事は今より遅くなりますか」
サカキが asyncio.gather の行を指した。ここは私にも読めた。二つの問い合わせを同時に投げて、両方が揃うのを待ってから先へ進む書き方だ。
「はい。両方の答えが揃うまで待ちます」
サカキは言い直しをしなかった。
「待たなければ、記録が取れるときと取れないときが出ます。取れたり取れなかったりする記録は、後から見たときに何も言えません」
「待つ分だけ、遅いほうに引きずられます。それが、確かめるための代償です」
フクハラさんが少し考えてから言った。「……一日待つわけではないので、そこは飲めます」
サカキは次に、コードの中ほどを指した。bucket_of という短い関数だった。
「ここに、一つだけ、わたしには決められないことがあります」
フクハラさんが顔を上げる。
「同じ人が、訊くたびに違うほうへ行っていいですか」
「……」
「行っていいなら、呼ばれるたびにその場で決めれば済みます。行ってはいけないなら、その人ごとに決めます。どちらが良いかは、規程の問い合わせがどう使われているかで決まります。それは、わたしよりフクハラさんのほうがご存じです」
フクハラさんは、今度は迷わなかった。
「よくないと思います。同じ人が、期の変わり目に何度も同じことを訊いてくるので。前に訊いたときと答え方が変わると、混乱します。うちの社員は、そこを気にします」
「では、その人の識別子で決めます。同じ人は、いつも同じほうです」
サカキが比喩を足したのは、そのあとだった。
「同じ定期券の客は、いつも同じ経路になります」
「……その決め方は、毎回同じ答えになるんですか」
「なります。同じ入力からは、いつ計算しても同じ値が出る道具を使っています。hashlib ──入力から決まった値を作る、Python に最初から入っている道具です」
サカキは bucket_of の中身を指した。
「利用者の番号と、この移行の名前をつないで、この道具に通します。出てくるのは長い十六進の文字列なので、頭のところだけを数字に直します。それを100で割った余りを取ると、0から99までのどれかになります。その数字が、目盛りより小さければ新しいほうです」
「入力が少し違うだけで、出てくる値は大きく散ります。だから0から99のあいだに、だいたい同じ数ずつ分かれます。十人に一人、という言い方ができるのはそのためです」
「Python には hash() という、もっと手軽な仕組みも最初から入っています。ただし文字列を渡したときは、プログラムを起動し直すと、同じ文字列でも別の値になります。それを使うと、再起動のたびに全員の行き先が入れ替わります」
「移行の名前を混ぜているのは、次に別のものを移すときのためです。名前が変われば並びも変わります。同じ人が、いつも先頭に立たされることはありません」
同じ人がいつも同じほうへ行く、という約束は、使う道具の性質そのものに支えられていた。私はそう書き留めた。
フクハラさんの質問は、まだ続いた。
「割合を上げていく途中で、一度新しいほうへ行った人が、また元に戻ることはありませんか」
「ありません」
サカキは bucket_of の引数を指した。
「この関数は、目盛りを受け取っていません。人の側の数字は、最初から最後まで動きません。動かしているのは目盛りだけです。0から10へ上げれば、条件に当てはまる人が増えるだけで、当てはまっていた人が外れることはありません」
最後に、組み立てのところを見せた。
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「問い合わせを受ける側のコードは変わりません。ここで、直通先を二つと、目盛りと、記録の置き場所を渡すだけです」
「これができるのは、外へ問い合わせる場所が一箇所にまとまっていたからです。三年前に組んだ人が、そこだけは分けてくれていました」
「ただ、目盛りを動かすのは誰かの仕事です。仕組みを入れたから自動で進む、ということはありません」
「目盛りは、ここで渡す数字です。動かすには、数字を変えて入れ替えます。入れ替えている最中は、台によって目盛りが違う時間ができます」
フクハラさんがうなずいた。「そこは、私がやります」
サカキは最後に一つ、範囲を切った。
「この振り分けは、動かす台が何台に増えても、同じ人は同じほうへ行きます。計算に外の道具を使っていないからです」
「ただし、記録のほうは違います。差分は、動いている台の中に溜まります。台が増えれば、記録は台の数だけ散ります。集めるなら、集める場所を別に決めてください」
私はその二つを別の行に書いた。同じ仕組みの中で、片方は台数に関係がなく、もう片方は台数の話になる。混ぜて書くと、後から読む人が取り違える。
第4幕: シミュレータと引き渡し ── 外す日を決める
サカキが、同じ五件の台本をもう一度シミュレータへ通した。今度は組み直した窓口で、目盛りは0のままにしてある。
結果を声に出すのは、記録を書く側の仕事になっている。
五件とも、届いた答えは今までと同じだった。有給休暇も、育児短時間勤務も、通勤手当も、慶弔休暇も、副業の届出も、旧いほうの文面がそのまま返っている。
そして記録のほうに、一件だけ残っていた。通勤手当の問い合わせで、旧いほうが第18条、新しいほうが第19条。どちらの答えも、文面ごとそのまま並べて残っている。
「届いているものは、何も変わっていません」とサカキが言った。「変わったのは、変わったことに気づける場所が、経路の中にできたことです」
フクハラさんが記録の行を指した。「これ、私が紙でやっていたことですよね」
「同じことです。置き場所が、机の上から路線の上へ移りました」
サカキは続けて、目盛りを10に上げて流し直した。
社員番号 E-1001 の問い合わせに、新しいほうの答えが届いた。E-1018 には、旧いほうの答えが届いた。
「この二人は、何が違うんですか」
「社員番号から計算した値が違います。E-1001 は3、E-1018 は12です。今の目盛りが10なので、3は内側、12は外側です」
「目盛りを12に上げたら、E-1018 は移りますか」
「移りません。E-1018 の12は、目盛りの12より小さくないからです。13以上にして初めて移ります」
私は二つの社員番号を、計算した値のところで並べて書いた。人の側の数字と、目盛りの数字は、別の列に置いた。

並べてみると、動いているのは目盛りの列だけだった。人の側の列は、最初から最後まで同じ数字のまま置かれている。
サカキは同じ社員番号で三度続けて流した。三度とも、同じほうへ行った。
三度とも同じ側だった。乱数も、時計も、渡していない。渡していないのに、答えは決まっていた。私は前の回のことを思い出しながら、そう書いた。
サカキが一言だけ足した。
「毎回同じ結果になるものは、確かめるのが楽です」
それから、目盛りを100にして流し、最後にもう一度、別の窓口で流した。新しい直通先だけを持つ窓口──最初に見せてもらったのと同じ形のコードで、中身の直通先だけが新しくなっている。
答えは、目盛り100のときとまったく同じだった。
フクハラさんが画面を見て言った。
「これ、最初の形と同じですね」
「はい。替えられる形にしておく仕事は、替え終われば要らなくなります」
シミュレータの結果は五本、〇・〇二五秒だった。目盛りが0のとき届く答えが今までと変わらないこと、番号が変わった一件が記録に残ること、目盛りを上げるとその人にだけ新しいほうが届くこと、同じ人を三度呼んでも三度とも同じほうへ行くこと、そして旧いほうを外しても答えが変わらないこと。その五つを確かめた。
サカキは、そこで区切りを入れた。
「保証することを言います。目盛りが0のあいだ、届く答えは今までと同じです。番号が変わった件は、必ず記録に残ります。同じ人は、いつも同じほうへ行きます」
「保証しないことを言います」
「まず、費用です。並走しているあいだは、新しいほうにも同じ問い合わせが流れます。両方に課金されます。安いほうへ移るなら、二つ足しても今より安くなることがありますし、高いほうへ移るなら今より高くなります。どちらになるかは、単価を見てください」
「待ち時間は、遅いほうに引きずられます。さっき申し上げたとおりです」
「それから、この仕組みが判定しているのは、正しさではありません。変わったかどうかです。新しいほうと旧いほうが、同じように間違っていれば、一致していると判定します」
フクハラさんが顔を上げた。「……それは、拾えないんですね」
「拾えません。今夜の判定は、番号が変わったかどうかしか見ていません。文面が悪くなっていても、番号が同じなら通ります」
「文面は見ないと決めましたから、そこは私たちが別に見ます」
フクハラさんは、もう確認の口調ではなかった。サカキはうなずいてから、言い足した。
「拾う相手を、直通先を替えることで新しく出てくる違いだけに絞りました。元から間違っていたものは、替えなくても間違っています。それは今夜の移行とは別の日の仕事です」
「機械が決めるのは、変わったかどうかまでです。どちらが正しいかは、残った記録を人が読んで決めます。さっきの通勤手当も、機械は違うとしか言っていません。第19条のほうが正しいと言ったのは、フクハラさんです」
「目盛りを動かすときの入れ替えも、一瞬では終わりません。入れ替えている間は、台によって目盛りが違います。上げる方向にしか動かさないので、行き先が前後することはありませんが、割合はしばらく揺れます」
「もう一つ。さっき申し上げたとおり、外へ問い合わせる場所が一箇所だったので、そこへ目盛りを差せました。呼び出しが何箇所にも散らばっている仕組みでは、差す場所を作るところから始まります。それは今夜の話の外です」
「それから、今夜は比べる軸が最初からありました。規程の番号です。答えが文章だけで返ってくる仕組みなら、何を軸にするかを決めて、それを形のある項目として返させる。そこが最初の一手になります」
フクハラさんは、しばらく紙を見ていた。それから通知書のほうを手に取った。
「期限は、向こうが決めています」
顔を上げた。
「でも、外す日は、こちらで決められますね」
「決められます」
「来月の頭から、目盛りを1にします。それで一週間、記録を見ます。何も出なければ、10に上げます」
「そこから先は、差分が出なかった週の翌週に一段ずつ上げます。100にして一週間、記録が空のままなら、旧いほうを外します」
サカキが一つだけ訊いた。
「差分が出たとき、どこまでを許すかは、決まっていますか」
フクハラさんは、少し黙った。
「……そこは、まだです。持ち帰ります。条文の番号が変わるのは、去年の改定があったので、たぶん出ます。どこまでを直っていると見るかは、私だけでは決められないので、上と決めます」
「それで足ります」
フクハラさんは紙を鞄にしまい、立ち上がった。
「ありがとうございました。止めますと言いに来たのに、始める日を決めて帰ることになりました」
廊下のほうで、足音が一度止まり、それから遠くなった。表示盤の琥珀色は、来たときと変わらない間隔で流れていた。
私は記録の残りの欄を埋め始めた。打った一手、配線した場所、保証しないこと。書くことはいつもどおりの分量だった。
サカキが、盤から目を離さずに言った。
「トウヤ。この指令所、来期で畳みます」
私はペンを止めなかった。止めずに、続きを聞いた。
「統合先の指令所があります。あちらへ機能を移します。わたしも、あなたも、そちらへ移ります」
「あなたが書いてきた記録は、向こうへ渡します。引き継ぎの資料です。八年分あります。初日から使える形で残っているものは、ほかにありません」
私は書いていた行を書き終えてから、顔を上げた。
「相談を受ける場所は、なくなりません。移るだけです」
サカキはそこで初めて、こちらを見た。
「今日、決まりました。決まったので、言いました。決まっていないことは、当直に流しません」
私が訊いたのは一つだけだった。記録の様式は、向こうのものに合わせるのか。
「合わせます。というより、こちらの様式が向こうのものです。少しずつ、そうしてきました」
それだけだった。サカキは表示盤に向き直り、翌日のダイヤを一本ずつ確かめ始めた。
向こうが期限を決めて、こちらが移り方を決める。さっき、この机の上でやったことと同じだった。
「止まらない方法じゃない。止まり方を決めるんです」
私は様式の欄をすべて埋めた。来訪。申告された症状。今のダイヤの問題。打った一手。配線した場所。保証しないこと。シミュレータ結果。次の当直への申し送り。
全部埋めてから、様式に無い余白へ、一行だけ書き足した。
「本日、目盛りは0。まだ誰にも届いていない」
🚦 本日の指令記録(Dispatch Log)
- 指令の定石(パターン名): Parallel Run(新旧並走)── 新しいほうにも同じ入力を流しながら、届ける側を割合で少しずつ移し、最後に旧いほうを外す進め方
- 申告された症状: 「新しいほうを試したが、同じなのか違うのか判定できない」。本当に手が止まっていたのは判定の作業ではなく、同じと呼ぶ基準が誰の手にも無かったこと。持ち込まれたときには既に、期限が来たら止めるという結論が出ていた
- 今のダイヤの問題: 窓口が直通先を一つしか持っておらず、替えるには切替の日に全員をまとめて移すしかなかった。三年前は替える相手がいなかったのだから、その形で用は足りていた
- 打った一手: 新旧の両方へ同じ質問を流し、届けるほうを割合で決めた。判定は引く規程の番号の一致だけで行い、文面は見ない。同じ人はいつも同じほうへ行く。並走と切替を別の仕組みにせず、一本の目盛りの両端として扱った
- 配線した場所: 起動時の組み立て(
build_window)。直通先を二つと、目盛りと、記録の置き場所を渡している。問い合わせを受ける側のコードは変えていないが、目盛りを動かす仕事は誰かに残っている - 保証しないこと: 並走中は両方に課金される(単価が違うため、二つ足した額が今より高いか安いかは移り先による)。待ち時間は遅いほうに引きずられる。判定しているのは正しさではなく変化の有無であり、新旧が同じように間違っていれば一致と判定する。文面の劣化は見ていない。今回は比べる軸(規程の番号)が最初から出力にあったが、答えが文章だけで返る仕組みでは、軸を決めて構造として返させるところが先の仕事になる。呼び出しが一箇所にまとまっていない仕組みでは、目盛りを差す場所を先に作ることになる。目盛りを上げる入れ替えの最中は台ごとに目盛りが揃わず、割合がしばらく揺れる。差分の記録は動いている台の中に溜まるので、台が増えれば散る
- シミュレータ結果: 五本、〇・〇二五秒。目盛りが0のとき届く答えが組み直す前と変わらないこと、番号が変わった一件が記録に残ること、目盛りを上げるとその利用者にだけ新しいほうが届くこと、同じ利用者が三度呼んでも三度とも同じほうへ行くこと、旧いほうを外した窓口が目盛り100と同じ答えを返すことを確かめた
- 次の当直への申し送り: 差分が出たときにどこまでを許すかは、まだ決まっていない。持ち帰りになっている。並走のあいだ、届かないほうの答えは急いで受け取る理由がないので、まとめて安く処理する手立てもあるが、今夜の組み方では両方の答えを待つため使えない
使っているものの終わりが外から告げられて、移すしかないと分かっているのに、動いているものを止められないから手を付けられない──モデルの提供終了でも、外部サービスの停止でも、強制的なバージョン更新でも、形は同じです。そういう状態のまま期限が近づいているシステムがあれば、止めずに移す手順を組む相談を承っています。
一斉に切り替えるのではなく、新旧を並べて走らせ、通す割合を少しずつ移していく形です。何をもって「同じ」とみなすかを決めるところから、Meetsource の相談窓口でご相談ください。
